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松旭斎滉洋 マジックジャパン

昭和50年代、道頓堀角座の演芸、松旭斎滉洋&マジックカーペット・フラワーショウ・暁伸&ミスハワイ・桂枝雀・桂春団治と新喜劇の繁盛期。
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松旭斎滉洋&マジックカーペット

    松旭斎滉洋
             
        
   
  
素人名人会(しろうとめいじんかい)は、1955年から2002年まで毎日放送(MBS)で放送され、初期の司会は漫談家・西条凡児氏から、近年では漫才師・西川きよし氏が務めた視聴者参加型の公開演芸合戦の看板番組であった。その番組の審査員長には大久保怜氏、奇術部門では松旭斎滉洋氏が中心に奇術界への登竜門なる番組の審査員を務めていた。

千日前・東洋劇場は「大阪劇場」(通称・大劇)、新生の大阪松竹少女歌劇団(OSSK)・現在の日本歌劇団(OSK)を本拠地とした、レビュー・歌謡ショーの実演から松竹映画上映の二本立て興行を行い、笠置シズ子や京マチ子といったスターを生み出した劇場があり、ここでダンサーと共にマジックショーで大活躍していた。
千日前(せんにちまえ)は、大阪府大阪市中央区に位置して、千日念仏を唱える法善寺と竹林寺があり、法善寺横町のある道頓堀には、演芸場や映画館などの娯楽街がある。

その道頓堀には、文楽座や稀代の天才喜劇役者・藤山寛美が活躍した松竹新喜劇を看板に中座と、博多淡海を座長に松竹新喜楽座が活躍した、漫才・落語・奇術を興行する寄席・角座(現在・大阪通天閣地下と東京新宿)があった。(大久保怜氏も夏特別興行で出演する)
その角座では、かしまし娘・レッツゴー三匹・宮川左近ショー・笑福亭松鶴・桂春団治・松旭斎滉洋を看板に興行する寄席があった。

1977年8月1~25日
大阪新歌舞伎座 非情のライセンス 会田刑事・クロード東(二役)
宮園純子・伊藤友衛・淡島千景・左とん平・松旭斎滉洋
次郎吉膝栗毛・
鼠小僧と弥次喜多 次郎吉・粋な男 金井克子
茶川一郎
http://www.amachi.info/stage/stage.html

京都東映太秦映画村の芝居小屋中村座で開催された、 千葉真一サイン会へ、真田広之・志穂美悦子らと、奇術・松旭斎滉洋とマジックカーペットで出演する。(真田 豊實師・安田 悠二師も応援出演)

京都・南座

1979年には、宝塚大劇場バウホール・すみれの園へ出演する。内海重典
氏演出による、奇術のお好きな王女様(青柳有紀・翼悠貴・ひびき美都)
http://sumirenosono.xxxxxxxx.jp/stage_1979.html

宝塚歌劇50周年記念
宝塚歌劇 1月 専科・月組・星組合同公演では、奇術の演技指導を手掛ける。
http://sayakakaze.web.fc2.com/history/history_t2_revue.html
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松旭斎たけし改めマジカルたけし

マジカルたけし



松旭斎たけし改め

中学生の頃から兄(故・二代目桂枝雀)との漫才コンビで素人ながら名を知られるようになる。阪急電鉄勤務を経て松旭斎滉洋に入門、松旭斎たけしの名で1971年から吉本所属。「たけし」は本名の前田武司からとったもの。
兄の勧めもあり、奇術を織り交ぜながら落語を演じる「マジカル落語」を始めたところ好評を得て、マジカルたけしに改名し本格的に取り組む。旧花月劇場に定期的に出演していたが、体調を崩し1991年死去。


私が花月通いをしていた時分はマジカル落語ではなく普通のステージマジックをされており、花月劇場ではマジカル落語を見ることが出来ませんでした。私が唯一この人のマジカル落語を見たのは読売テレビお笑いネットワークで、手品のネタ販売員と客との会話という設定でカードや小道具を使ったマジックを演じるというものでしたが、この他にも「子ほめ」などの古典ネタをベースにしたものもいくつか存在したそうです。

ステージマジックをする時のめくりは赤文字が奇術でしたが、マジカル落語の時はやはりマジカル落語だったのでしょうか。

この人のステージマジックは、人体切断とか空中浮揚とか瞬間移動などという大ネタはなく、あくまで手練の技術を見せるスライハンドマジックが主体でした。花とか小道具を出したり消したり、細かく破った新聞紙が元通りになったり、シルクハンカチの色を一瞬にして変えたり、そういうネタを淡々とやっていくという感じでした。

たいていはひとりで出ていましたが、たまに奥様と思われる女性が後見を務めている時もありました。その時は、後見の首に輪っかを嵌め、その後ろから長い剣のようなものを刺すという、たけし師にしては大ネタの部類に入るであろうマジックを最後にやっていたのを覚えています。

バックに流れる音楽はT-SQUAREの「Love is in my sight」「Overhead kick」「宝島」などをつないだもので、マジックの内容に比べるとなかなかセンスの良いものでした。

複数の資料によると、たけし師には酒癖が悪い一面があったそうで、酔って舞台に上がって失敗するというようなこともあったようです。亡くなったのも過度の飲酒による疾患が原因だとする見方もあります。
亡くなったとき、新聞等で枝雀の弟、死去みたいな書き方をされていたのを覚えています。こんな書き方をするから、弟の死を悼む枝雀師の精神状態に余計な悪影響が及んでしまったのではないかと思えてなりません。

【2012/6/9コメント】

 
 平成1~2年頃、旧うめだ花月閉館間際に撮影したものです。ちょうどシルクハンカチのネタをやっているところでしょうか。基本的に小ネタばかりなので舞台上には道具の類はほとんど何もありません(笑) 芸風は堀ジョージ師と似た感じです。


しょうきょくさい・たけし

松旭斎たけし

Shokyokusai Takeshi



名前


松旭斎たけし

かな


しょうきょくさい・たけし

英語名


Shokyokusai Takeshi

職業


芸人/落語家

性別


男性

生年月日


1944年2月20日(うお座)

没年月日


1991年3月19日(享年47歳)

改名


松旭斎たけしマジカルたけし

マジカルたけし

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マジカルたけし(本名:前田 武司、1944年2月20日 - 1991年3月19日)は、日本奇術師落語家二代目桂枝雀の実弟。

人物と芸風

兵庫県神戸市出身。が早世したため、中学生時代からとセミプロの漫才コンビを組んで各地のコンテスト荒しを重ね、生活の糧とする。特に『漫才教室』(ABCラジオ)の卒業試験では会場を大入り満員にするなど、伊丹の前田兄弟は素人ながらプロから注目され、固定ファンが居るほどの人気を誇った。


中学卒業後、阪急電鉄で勤務する傍ら大阪府立北野高等学校定時制)に進学。同高卒業後、兄に続いてプロ転向を決意し、1963年にシガレットマジックの名手、松旭斎滉洋に入門。松旭斎たけしを名乗る。1965年6月に千日劇場で師匠の後見で初舞台。10年間内弟子修行の末、1971年に独立。吉本興業に所属しうめだ花月などに出演した。なお、シガレットマジックは、単純にたばこを飲み込むだけで、身体への負担が大きく、松本人志が放送室で語った所によれば、ダウンタウンがデビュー直後、京都花月に出演している際に、楽屋で何度も嘔吐していたという。


子ほめ」などの上方落語のネタの合間に奇術を融合させた独特のマジカル落語を創案し、1983年にマジカルたけしに改名。ただし酒豪で酒癖が悪く、酔ったまま舞台に上がりマジックを失敗した事もある。


兄の枝雀より先に亡くなったため、枝雀が死への恐怖を募らせ、鬱病再発の引き金になったと言われている。


1980年には花王名人劇場で兄と久しぶりに漫才に挑戦している。


松旭斎 滉祥 改め 松旭斎 滉司


芸能クリエーター おすすめのスター満開!! 

手品師 松旭斎滉司 (しょうきょくさい こうじ)
 




船場は呉服問屋の長男として誕生。
幼少の頃より芸能好き10歳で初舞台。
華やかで鮮やかな舞台に魅了されて・・・
宝塚歌劇と市川猿之助の歌舞伎ファン・・・
ショーを観るもよし、演ずるもよし・・・
皆様に喜ばれる舞台を創造します。
「観る演じる支える」その 三拍子そろった
プロの迫力と団結力の素晴らしさを、・・・
みなさまへお伝えして支えていただき・・
応援していただければ幸いでございます。


 


1975年 大阪の手品屋 松旭斎滉洋に入門師事
1999年 世相漫談 ローカル岡に入門師事(話術の師)
2000年 ボーイズバラエティー協会入会
2000年 (社)日本奇術協会入会
2007年 芸名 マジックジャパンを松旭斎滉祥(しょうきょくさい こうしょう)と改名
同年夏8月に改名
2007年12月 芸名 松旭斎滉祥を松旭斎滉司(しょうきょくさい こうじ)と改名








Fotolia


話術の師匠:世相漫談の父 ローカル岡

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/430f5a56bbff6e5659eb50200b3d07a9/1299938968 

世相漫談 ローカル岡 

ローカル岡(ローカル おか、本名:岡田 満(おかだ みつる)、1943年12月13日 - 2006年1月16日)は、茨城県那珂市出身の漫談家である。飄々とした風貌と茨城弁の独特の語り口で世相を切り取る漫談が人気を集めた。漫談家になる前は漫才師として活動した。ボーイズバラエティ協会落語芸術協会に所属していた。愛称は、漫才師時代は「セイちゃん」、ボーイズ以降は「岡ちゃん」である。

漫才師としては、青空球児・好児昭和のいる・こいるなどと同期になる。

  • 1978年、「シャンバロー」に加入。二代目岡三郎を襲名。
  • 1983年、三田宗司とともに歌謡漫談コンビ「ザ・ローカル」を結成する。
  • 1995年独立。芸名をローカル岡に改名。以後、世相漫談を中心に活動していく。
  • 2005年10月、著書『笑いのツボ押します』(扶桑社)発売。
  • 2006年1月16日肝硬変で死去、62歳没。

ローカル岡という芸名は、元スリートーンズのリーダー若菜春夫(元・日本演芸家連合事務局長)が命名した。それまで、ソロ活動の時は岡三郎名義だった。「ローカル岡」としてのソロ活動開始後は、茨城弁を主とした世相漫談を語っていた。時事漫談という表記もされたが「じじいの漫談」と言われることを嫌がり好んでいなかった。

1983年に三田宗司と結成した「ザ・ローカル」は、過去の相方のなかで最も息が合ったコンビとされる。ギターを弾き語りする相方に対して、岡が突っ込むタイプの芸風であった。1995年、相方が病気静養のため活動休止となった。

  • シャンバロー(柳四郎・邦一郎・岡三郎)
    • 三味線とアコーディオンを組合せた長唄を下地としたボーイズグループ。三味線を担当していた初代岡三郎の脱退により2代目岡三郎(ローカル岡)がクラシックギターの担当として加入。新橋でバーテンをやっていた頃に知り合った東京ボーイズの旭五郎の紹介によるものとされている。
  • 東京あんみつ娘(にきび・ほくろ・えくぼ/解散)
    • シャンパロー一門の兄弟弟子にあたる。
  • 東京ボーイズ(旭五郎・菅六郎・仲八郎)
  • シャンバロー一門は、伝統的に数字の名前を受け継いだ。
  • 弁慶と牛若丸 三田宗司が「弁慶」の名義でギターを担当していたボーイズ
  • シャンバローが古今亭今輔一門の色物として芸協の寄席にあがっていたため、そのつながりで、今輔の弟子で娘婿である三遊亭円右門下の色物として寄席にあがっていた。

兄弟子のローカル晃彦(九州共立大学教授:佐々木晃彦)

佐々木晃彦先生(経済学漫才師)

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 九州共立大学経済学部の教授で、「笑い文化を経済に変える」をテーマにして全国の講演会で大好評を博し、ローカル晃彦(師匠はローカル岡)の芸名で寄席や学園祭に出演され、大手企業のコンサルタントとしても大活躍されています。
 
北九州市の九州共立大学経済学部教授佐々木晃彦さんが「ローカル晃彦」の芸名で、東京の新宿末広亭で漫才師としてデビューする。師匠の漫談家ローカル岡さんとコンビで、専門の文化経済学から社会のゆがみに笑いで切り込む。企業による芸術・文化の支援活動に詳しく、「経済活動が無ければ生きていけないが、文化土壌無しには生きていく意味が無い」が持論だ。

第18回ボーイズ・バラエティ大会に「漫才文化経済学」の演題で立つ。佐々木さんが「文明的ぜいたく」と「文化的ぜいたく」「食糧自給率」など大学の講義を約400字にまとめ、時事風刺を得意とする芸歴35年の岡さんが、掛け合いや落ちなどをちりばめ、脚本を作った。

2人は10年前、ひいきにしている相撲部屋で知り合い、酒を酌み交わす仲になった。「笑いのネタは本質を突いて深みがあり、10年は腐らないものがいい」という佐々木さんの言葉が、文化を軽く見る風潮を心配していた岡さんの心に響いた。

漫才について、佐々木さんは「研究成果を書物で発表するのと、寄席で漫才を演じるのとに違いはない。経済を研究する左脳と文化を感じる右脳を対話させるのが、文化経済学だから」と話す。

山形県生まれ。工業高校を卒業後、東京の町工場で働いたが、大卒との待遇の違いを体験した。東京の大学に入り、「日本のみんな一緒という『車座社会』」を嫌い、フランス語、ギリシャ語、ラテン語を学び、フランスの大学院に留学した。

26歳から、西アフリカ・モーリタニアの合弁会社でイカやタコを買い付けたり、フランスで日本のカメラ会社の貿易の仕事に就いたりした。また、東京都内の美術館に勤務していた時は、旧ソ連の美術品を日本に紹介するなどいろんな職業を体験。

8年前、同大教授に就任した、最新著書「公営競技の文化経済学」(芙蓉書房出版)の中で、競馬や競輪の場を「職業、社会的地位、性別、年齢などによる差別の無い、だれもが一緒の土俵にあって個人の自由が保護される。管理社会の日本で、そういう空間は少ない」と書いている。

「寄席も相通ずる」という佐々木さんは「日本は富むための仕組みはできているが、豊かになるシステムには乏しい。五感で感じることを忘れている」と嘆く。

漫才師デビューを機会に1年のうち、半年は教壇で、残り半年は岡さんに付いて漫才を学ぶという。合間にパスポートを手に趣味の放浪を世界各地でするつもりだ。漫才師デビューはまだ家族にも話していない。「びっくりさせるのが楽しみだから」と笑わせる

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