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松旭斎滉洋 マジックジャパン

昭和50年代、道頓堀角座の演芸、松旭斎滉洋&マジックカーペット・フラワーショウ・暁伸&ミスハワイ・桂枝雀・桂春団治と新喜劇の繁盛期。
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日本の伝統継承:上方落語の歴史



 三代目 桂 春團治

上方落語の歴史 

神社の境内など屋外で活動を続けていた上方落語ですが、やがて当時の文化人が中心となって、座敷で一般から新作の小咄を募集して披露する素人咄の会が流行しました。この会は安永元年(一七七四)から天明末年(一七八九)まで行われ、多くの小咄本も発行されました。
 その後を受けるように、寛政六年(一七九四)に、初代桂文治が登場します。文治は大坂の坐摩神社の境内に小屋を建て、そこで連日、落語を演じるようになります。これが大坂の寄席の始まりとなりました。この席で文治は、落語だけでなく囃子鳴物入りの芝居噺を得意ネタとして演じ、わらべ唄にも「桂文治ははなし家で」と歌われたほど有名な存在だったと伝えられています。そして、この文治が、現在東西に居る「桂」を亭号とする落語家のルーツとなったわけです。

幕末、上方落語は繁栄期を迎えます。「桂」以外にも「笑福亭」、「林家」、「立川」といった一門が並立して、互いにしのぎを削ることになります。この内で「立川」は明治十年前後に姿を消してしまい、残りの三派が明治の上方落語黄金時代を築き上げていくことになります。
そして、現在「上方の古典落語」として演じられている噺の多くが、この時代に創られており、一席の長さも今と同じ三十分前後のものになってきました。
 幕末から明治にかけて上方落語の代表的存在というと初代桂文枝の名が挙げられます。三代目桂文治の弟子で、名人と呼ばれていました。十八番ネタの『三十石』を質入れして、質受けするまでは、いくらお客から注文されても決して高座で演じなかったという伝説を残しています。芸の面だけでなく、たいへん人望のあった人で、関西の寄席の楽屋には、文枝の肖像画が飾られていたと申します。
その門下には「四天王」と呼ばれた四人のすぐれた人材が揃っていました。初代桂文之助、桂文都、初代桂文三、初代桂文團治がその四人です。

 

初代 桂文團治(1842年 - 1886年9月14日)は、本名: 鈴木清七。享年45。あだ名を風貌から「塩鯛」、俳名も同じ。

元は米屋の養子であったともいい、かもじ屋であったとも伝える。素人落語の連中に加わり半面を付けて高座に上がり三味線を弾いて人気を取った。1871年頃に初代桂文枝の門下で初代桂米丸を経て、1873年から1875年年頃に初代市川右團次の懇意から文團治を名乗る。同門の初代桂文三(後の2代目桂文枝、桂文左衛門)、2代目桂文都(後の月亭文都)、初代桂文之助(後の2世曽呂利新左衛門)らと共に「四天王」として称えられた。

明治10年代、商才にも長けており、貸車屋、茶店などを出し蓄財し平野町御霊神社に自席を営んだ、その実力、人気共にずば抜けていた。新聞落語なども手掛けたようだが、あくまでも正統派で性格は覇気満々で、文三の当初の対抗馬はこの文團治であった。

ある時沖仲仕の荒くれ男が寄席で『蜆売り』を聴き情に溢れ泣いてしまう。その後『笑うつもりで寄席に来たのに、オイオイ泣かすとは勘弁ならん』と楽屋に怒鳴り込んできた。文團治は返す刀で『笑うところ、泣くところ有っての芸で御座います。』と挨拶し金5円を包んで渡し、大喜びで帰った男は後に近所では『蜆売りの平吉』で通ったという。

しかし、1886年、3代目桂文吾、4代目林家正三と同じく、流行のコレラのため若くして死去。道頓堀に新しく一門の寄席を作った矢先であった。

なお、『米揚げ笊』はこの初代の作といわれる。『三枚起請』『妾通い』等の色っぽい落語得意とした。

主な弟子には、2代目桂文之助、2代目桂文團治(後の7代目桂文治)、初代桂歌團治(後に5代目笑福亭吾竹から笑福亭吉右衛門となる)、初代桂玉團治(後の3代目桂文都)、3代目桂文團治、桂鯛團治(後の桂三五郎)らがいる。
 

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